昨日のデザインのお話を振り返って。
デザインしたものを言葉で表現することは、余計なことだと思ってるんです本当は。
なので今までは言葉にすることをしなかったんですね。そんなの野暮だって。
でも、それを「やめてみた」。
デザインする側の人たちが考えていることを知ってもらうことで、
だれかのチャンネルが変わるかもしれない。
どちらかに偏っていることが多々あるんですが、
ぐるりと真逆の行動を受け入れてしまおうと。
「自分、偏ってるなぁ。」と気づいたところを、ぐるりと入れ替えてみる。
やっぱり違和感しか残らないかもしれないけど、
この時に気づくことで深まるものがある、かも。
そして、デザインを言葉にしたおかげで気づいたこと
「わたしは、ものづくりの人間ではない」ってこと。
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「晴れと雨の間に、ものづくりはあり。天と地の間に、ものづくりはある。」
自然の力を借りなければものは生まれない。
晴れの日だけではなく、誰にも見えないところで仕込むから、ものが生まれる。
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↑この言葉は、作り手を美化してるなぁと思って。
わたしの、「作り手ってこうあってほしい」というものが込められていたりして。
でも実際、作り手は、息をするのと同じように、ただ、日々、ものを作ってる。
食事をとるのと同じように。ただ、作ってる。
言葉やデザインで飾る必要もない、ただ作ってる人たちなんだろうなぁ。と思ったりして。
まぁ、装飾を施す行為が「デザイン」なんですけど。
ものづくりというものに携わる人に、
こんなデコレーションしまくったデザインや言葉を見せるという行為は
恥ずかしいなぁと、誰も見てないと思いながらも(どうしても自意識過剰が出てしまって)
でも、それがデザイナーのお仕事なのかな。
腹をくくって、向き合った結果生まれたんなら、それでいいじゃない。
と、労る自分もいるんですけどね。
何かを形にして、世に出す。という行為には、つまりいつまでたっても満足はなくて。
あっちに振れ、こっちに振れ、ブラブラのまま、
自分の未熟さをさらけ出す行為なんだろうなと思います。わたしの場合。
そんなとき、佐竹の親父さんのことを思い出したりするんですけど。

親父さんが、西陣の町家に自分のギャラリーをつくる際
大徳寺の和尚さんに「ここにどんな名前つけたらいい?」と聞かれたそうで。
すると和尚さん。
この場所は、
「わたしは〇〇なことをした、すごいだろう!」「俺はこんなことをした、偉いだろう!」
という人たちが集まる場所ではなくて、
「わたしはまだまだ〇〇が足りない。」「俺はまだこんなこともできていない、愚かだ。」
といって驕らずに研鑽を積む人たちが集まる場所の方がいい。
といって、名前を「 愚 庵 (ぐあん) 」と付けたというお話。
愚かだと言いながら、成功を収めている大先輩たちが今も研鑽を積み生きている。。。
そう思うと、なんかハァ〜って 。。。
でももう若い頃のように「よしっ、わたしもがんばろっ!!」とはならなくて。
ヒロシの2年前は「がんばろっ!」ってなってたみたい↓

物事に向き合い続ける自分を粛々と受け入れ、
上がったり落ちたりもせず、無事、健やかに、を望みます。。
あら、デザインの話は何処へやら。。。
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