いつからか着物は、繊細に扱わないといけないものになってしまって、
それで、人が触れることも遠い日常になってしまっていったのではないか。
両親が小さい頃には、各家庭で、庭先で、
洗い張りのシーンが目に入ってきたらしい。
解いて、水洗いして、板にはりつけて、ノリをつけて乾かす。
昔は着物地を、自宅で洗っていた。
今よりも時間の流れが緩やかで、
女性の仕事というのは、本当に大変だったんだろうが、
当然のように仕立てができて、直しができて、
いつも家族が着ている着物のことだから、
「ちょっと丈が短くなってきたわねぇ」
なんて思ったら、その年末には洗い張って
仕立て直しなんかしてたんだろうなぁ。
今では見ることは全くなくなってしまった。
今は、
「木綿やウールは自宅で洗っていいけど、
正絹は専門のところに出した方がいいよ。」
と、自分が着るものなのに手入れができなくなってしまっている。
なるべく汚さないように、という緊張感が
着物姿の人の美しさを作るとも思っているが、
いつの間にか思考停止してて、
とにかく専門家に任せよう。
という現代。
別に調べなくてもいいんだ、専門家に相談すればいい。
洗い張り等を専門に日々行っているところに任せた方が合理的なのだ。
と、思いながらも、考えることをしなくなって
次第に人々の手から離れていった着物という存在があったりして。
社会はおかげさまでどんどん便利になって、合理化されて、
人々の衣服もほぼ統一されていって、均一化されていって、
おんなじように教育されて、ロボットのような人たちが
今日も朝起きて、昼働いて、夜寝て、また朝がくる。
「無駄」が、人間らしくて愛おしいものになっていくんだろうなー、多分。
着物から習う感覚はとても多い。
着て、腕を動かすだけで、
触れる肌から、重みのかかる場所から、可動域、袖のふるまい、
大股では歩けない、着物の幅で歩く、
時間をかけて衣服を身につけることから新体験なはず。
着て過ごすだけで、新発見があるのだ。
現代に暮らすには、不便な部分-「無駄」-ばかりだから面白い、と思ってる。
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